
高瀬瑞希は人生最大の危機を迎えていた。
いや、客観的に見た場合、大した危機とは言えないのかも知れない。
何故なら彼女の友人やその関係者ならばこの程度の事は日常茶飯事なのだから。
だが、彼女にとって『あの』エリアに近付くのは正に至難の技。
一歩足を進めただけでも額から大量の汗がまるでスコールのように降り注ぐ。
しかし、ここで退く訳にはいかなかった。
そう、これは使命。
高校時代からの大切な友人を悪の手から救うのは自分しかいない。
そう強く決意した瑞希は己を奮い立たすように、『あの』エリアへの侵攻を開始する。
勝利のプランは既に頭の中に描かれている。
後はその計画通りに実行するだけだ。
(て、言うか何であたしがこんな事を…)
瑞希は一人頭の中でそう悪態をつく。
時は午後一時過ぎ。
普通の大学一年生である高瀬瑞希は今現在近所のビデオショップで悪戦苦闘していた。
目的はとあるアニメのビデオを借りる事。
周囲の人間が聞いたら「何だそんな事」とか言われるかも知れないが、元よりアニメや
漫画等には全く興味のない瑞希にとってこの行動は今までの人生の中で最も難しい行為と
してその全貌を現す。
ならば、わざわざそんな行為をしなくてもいいのでは? と、思うかも知れないが彼女
には彼女なりの理由があった。
それは高校時代の男友達である千堂和樹がよりにもよって『同人誌』なるものにハマッ
てしまったのが全ての原因。
元より和樹に対して淡い恋心を抱いていた瑞希にとって最近のつれない態度は瑞希の心
に多少なりとも暗い影を落としつつあった。
それならばこっちから多少近付いていき、チャンスとあらば和樹をあんな異形の世界か
ら抜け出させてやりたい。
そんな思いが結実して瑞希は普段全く眼中にない、アニメコーナーで多量の汗をかくは
めに陥っているのだ。
(…それにしても)
瑞希は周囲の光景を見渡して思わず溜息をついてしまう。
可愛い漫画のキャラクターが描かれた大量のビデオパッケージ。
現実では絶対に有り得ない服装をした女性が色っぽいポーズでこちらを眺めている。
そのどれもが瑞希からすると、正に未知の空間。
理解すら出来ないミステリアス・ゾーン。
しかしここで怯む訳にはいかない。
敵を知り、己を知らば百戦危うからずや。
瑞希はそんな故人の語った訓示を胸に秘め、アニメコーナーの中枢に向かって徐々に近
付いて行く。
先ほどから店員の視線が無性に気になる。
瑞希はそんな己との葛藤に負けぬよう、自らの頬を叩き気合を入れ直す。
パンパンッ!
「…よし!」
客の殆どいない店内でそんな行為を繰り返す瑞希を店員がおかしな目で見つめるのは至
極当然の事であった。
(え〜と、確かこの辺よね…)
瑞希が足を踏み入れたのはアニメコーナーの中でも特に子供用のアニメを置いている
『キッズコーナー』と言われる場所である。
棚には恐らく瑞希ですら子供の頃に見た事のある、沢山のアニメビデオが大量に並べら
れている。
瑞希はその中からとあるアニメビデオを必死に探し出す。
(…え〜と、名前何だったかしら? 確か…)
ちなみに今瑞希が探しているのは、現在絶賛放映中の『カードマスターピーチ』。
その人気は凄まじく、今の同人業界を知るにはこの一本を観れば全てがわかるという超
人気番組である。
だが、人気番組の常として柳の下のドジョウが大量に出て来るのはどの業界でも変わら
ない。
故に瑞希の前には大量のピーチ『もどき』の作品がおびただしい量で並べられていた。
「え〜と、『魔法少女ピクシーサミー』だったかしら? …でも前に和樹が描いてたのと
は微妙に違うような…。あ、この『哀天使ウェディングリリィ』だったかな? んー。で
もそんなややこしい名前じゃなかったよね、確か。あ、これこれ、この『美少女剣士ブレ
ザームーン』だったかな? これならあたしもちょっとだけ知ってるし。…でも現在絶賛
放映中だって言ってたような…」
瑞希はそんな大量の魔女っ子アニメを前に悪戦苦闘を繰り返す。
元より殆どアニメの知識のない瑞希にとって、ここに並べられている作品の違いを見分
ける術などない。
「もーーーーッ! こんなのあたしにわかる訳ないじゃない!」
瑞希は目の前のアニメビデオを蹴り倒したい衝動に駆られるが、すんでのところで押さ
える。それにそんな事をしたとて自分にとって何もプラスにならないのは瑞希とて良くわ
かっていた。
(はあ…。しょうがないか…)
結局瑞希はそうやって心の中で白旗を上げながら、めぼしい作品の一巻を全て手に取り、
その場を立ち上がる。
幸い今なら他の客はいない。この状況下なら周囲の奇異の視線からも何とか絶えられそ
うな気がした。
そう判断した瑞希は少なからず大きな胸にビデオを抱きかかえながらレジへ急ぐ。
「…あの、これお願いします」
「はい、それでは会員カードをお願いします。
「あ、は、はい」
店員が事務的な口調で瑞希にそう話し掛ける。その視線はどことなく冷たい感じがした。
(やっぱりあたしみたいな大きな女の子がこんな子供向けのアニメをたくさん借りるなん
て、絶対ヘンだよね…。この店員さんも何処となく呆れた感じだし…)
実際には他に客のいない状況で自分の頬を叩いたり、怒声を轟かしたりしたら誰だって
奇異の視線で見るものだが今の瑞希に気付く術はなかった。
「…あの、お客さん」
そう心の中でヤキモキしていると店員が鋭い視線で瑞希の方に語り掛けて来る。
予想だにしなかった店員のその態度に完全に隙を付かれた瑞希は、頭の中に血を上らせ
ながら店員にまくしたてる。
「あ、あの、このビデオはですね。えーと、別にあたしがホントに観たいって訳じゃない
んですよ。そ、その。そう、人助け! 人助けなんです。だから別に気にしないで下さい
ね。今日見た事はなかったって事に…」
「いえ、そう言う話ではなく、お客さんの差し出されたこのカードはウチのレンタルカー
ドじゃないんですが…」
「…え?」
そんな間抜けな声を口にしながら、瑞希は店員の手にしたカードをしげしげと眺める。
そこには『生協お客様会員カード』と言う、おおよそビデオとは掛け離れた文字が踊っ
ていた。
「キャアッ!? す、すみません…」
そう小さく叫んだ後、瑞希は慌てて財布の中からレンタルカードを取り出す。その後は
いつもの段取り通りに事が進み、待つ事数分後。瑞希はようやくレンタルしたアニメビデ
オを渡される。
「…ありがとうございました」
そう事務的に呟く店員の目は冷たいを通り越し呆れ返っていた。が、今の瑞希にそんな
店員の態度に気付く術はない。
(和樹の馬鹿!)
ただただそう心の中で怒鳴りながら足早にビデオ屋から消えて行く瑞希の姿がそこにあ
った。
「ハア…。疲れたあ…」
無事、自宅に帰り付いた瑞希は誰もいない自室でそんな言葉を漏らす。
瑞希自身これほど疲れを感じたのは恐らく初めてだった。高校時代、真夏の太陽がギラ
つく夏合宿の時でさえ音を上げなかった瑞希が今、ベッドにうつ伏せに倒れ込みながらそ
の疲れを癒している。
今日とったこの一連の行動はそれほどまでに瑞希の精神を著しく疲弊させていた。
「…これで全然面白くなかったら承知しないわよ。もう…」
だが、瑞希はそう悪態をつくとすかさず立ち上がり、普段余り使わないビデオの電源を
入れる。
出来れば今日中に借りて来たビデオを全部観て、和樹の居る世界を少しでも知っておき
たかった。
それは和樹に文句を言う口実を作る為なのか? それともささやかな乙女心が為せる技
なのか?
瑞希自身には全くわからない事だった。
「えーと、じゃあまずはこのピクシーサミーってのを…」
そして待つ事十数秒。TV画面に華やかな女の子が現れたかと思うと、けたたましい音
楽と共にOPが始まる。
「へえ…。最近のってこんなに画面が綺麗なんだ」
正直に言うと瑞希とて悪態をつきながらも和樹がそれほどまでにいれ込んでいる世界に
多少なりとも興味があるのは事実だ。それに和樹の創作物を見る目には一目を置いている。
となると今日借りて来たアニメビデオもそれなりに楽しめるのではないか?
徒労に終わらせたくないと言う思いも当然あるだろうが、そんな期待が少なからずあっ
た。だが。
「ふあ…」
一話目を観終わった時点で瑞希は早くも欠伸を浮かべていた。
一体何と評価したらいいのだろうか?
確かに画面も綺麗だし出て来る女の子達も非常に可愛く描かれている。だが、瑞希にし
て見ればどんなに画面が綺麗だろうが、どんなに女の子が可愛いかったとしても、それが
評価の対象には絶対に成り得ない。
ぶっちゃげた言い方をすれば今観たアニメはとてもじゃないが面白いとは言えないシロ
モノだった。そうこうする内にビデオは全て再生しおえ、呆然とする瑞希を尻目に巻き戻
しを始める。
「き、きっとこれは和樹が言ってたのとは違うアニメよね。うん。そうだわ、きっと」
瑞希はそう気を取り直し、すかさず別のビデオを挿入する。
「…う〜ん、むにゃむにゃ。あ、いけない…」
「えーと、次は…」
「…くーーーーーーーーーーー…。…あ」
「あ、これさっき観たヤツだ…」
そうこうする内に時間はどんどん過ぎ去って行き。
「瑞希――――。ご飯よーーーーー。」
そんな母親の声に意識を現実に引き戻され、寝惚けた眼差しをこする瑞希。いつのまに
か時刻は夜の七時。二時頃に帰って来て五時間近くアニメを見続けていたと言う事になる。
瑞希はとりあえずその場に立ち上がり思いっきり背伸びをする。そしてベッドに座り込
み、天井を見上げる瑞希。
そんな余裕の姿を見せる瑞希の心に小さな火種が生まれる。それは徐々に大きくなり一
瞬で瑞希の心を覆い尽くす。そして次の瞬間。
「和樹のヤツ〜〜〜〜ッ!」
瑞希は誰もいない部屋の中でそんな咆哮を上げていた。
今日借りて来た全てのアニメ。そのどれもこれもがとてもじゃないが面白いとはとても
言えないモノばかりだった。
いや、それどころが今の瑞希ならはっきりと断言出来る。
全てつまらなかったと。
「何よ! 全然面白くもなんともないじゃない! 和樹ったらこんな世界にハマっちゃっ
たって言うの!? こんなのにハマっちゃったからあたしの誘いを断るようになったって
言うの? 許せない…。絶対に許せないんだからーーーーーーッ!」
既に恥も外聞もなく、そう部屋の中で声を荒げる瑞希。
その瞳は怒りの炎で燃え盛り、その声はライオンですら黙らせる迫力に満ち満ちていた。
和樹にしてみればそんな理由で怒られる筋合いは全くもってないのだが、今の瑞希にそ
んな正論が通じるとはとてもじゃないが思えなかった。
「瑞希! あんた何一人で騒いでるの? お隣に迷惑でしょ!」
「…え?」
「マジカル・ファンタスティック・レボリューション!」
次の瞬間。付けっぱなしにしていたラブリーな魔女っ子の映像と、瑞希を咎めに来た母
親が瑞希を中心に一直線上に繋がる。
TVの画面を観て呆然とした表情を浮かべる瑞希の母。瑞希はそんな母を横目にすかさ
ずTVのスイッチを消し。
「あは…。あはは…」
無理やり作った笑顔を差し向ける。だが。
「瑞希…。あんたその年になってまだそんなものを…。うぅ…っ」
その言葉を最後に口を手で覆いながら脱兎の如く駆け出して行く瑞希の母。その思い込
みの激しさと早とちりっぷりは娘の瑞希をも上回っていると言えるだろう。
「わー。お母さんちょっと待ってーーーッ!」
瑞希もそんな母親の誤解を解く為に慌てふためきながら追い掛けて行く。
(…和樹の馬鹿!)
同時にそんな事を心の中で呟きながら。
「ふえっくしょん!」
所変わって、ここは和樹の住むアパート。見た目は普通の一般人である千堂和樹もここ
最近の活動によって立派なオタク道を歩みつつあった。
「どうしたのだマイブラザー? 風邪はいかんな。そんな事では我々の野望達成に少なか
らず狂いが生じてしまう。くれぐれも健康には気を付けるのだぞ」
「…そう思うのならお前もちっとは原稿手伝ってくれよ」
「何を言うのだ同士和樹。我輩も十分手伝っておるではないか。だが、それは技術面では
なく精神面においてだ。我輩がこうやってお前を応援しているからこそ、お前も安心して
原稿に打ち込めるのだ。そうは思わないか?」
「へいへい…。わかった、わかった。そう言う事にしといてやるよ」
和樹はそうやっていつもの悪友の戯言をさらりと受け流すと再び机の方を向き直し、必
死になってコンテを書き込んだノートを睨み付ける。
だが、なかなか良いアイデアが浮かばない。
元より絵描き志望である和樹にとって漫画のシナリオというのは微妙に守備範囲から離
れたものであった。
まあ、それでも先月のこみパでなかなか良い売上を見せた和樹は勢い余って先月の倍以
上のページをたったの二週間で仕上げるつもりだった。
しかし、これがそもそもの間違い。
ちょっとした小話ならすぐに浮かぶ和樹でも、それなりの長編となると今までとは多少
勝手が違って来る。
しっかりとした構成。説得力のある台詞回し。何より先月の自分の作品を観た読者を落
胆させる訳には絶対にいかない。
そんな様々な思いが和樹の心に少なからずプレッシャーを与えていた。
「それにしても今日はいつになく苦戦しているようだな。一体どうしたと言うのだ?」
そんな和樹の姿を見て、多少なりとも気になった和樹の幼馴染である九品仏大志がいつ
もの腕組みをしながら和樹に話し掛けて来る。
「ああ、今回の話はピーチに新しいオリジナルライバルと決闘させようと思ってるんだけ
どさ。なかなか良い案が浮かばなくて」
「何だそんな事か。それなら作中に出て来る敵をお前なりにアレンジしてそのまま使って
しまえばいいだけの事ではないか」
「…いや、それじゃあ他にある同人誌とやってる事が一緒だろ? 俺としてはちょっと違
う切り口でやってみたいんだよ」
「そうは言ってはウケを狙うには多少の妥協も必要だぞ」
「それはわかってるんだけどさ。…う〜ん、何か面白いアイデアないかなあ」
時刻は既に午後九時過ぎ。
少なくとも今夜中にコンテを仕上げてしまわねば、それ以降のスケジュールに支障をき
たす。
そんなひっ迫した状況が和樹の心に更なる焦燥感を抱かせる。ふとその時。
ダンダンダンダンッ!
玄関の外から激しい音が聞こえて来る。どうやら見知らぬ誰かがアパートの階段を激し
く上って来ているようだ。
「おいおい、勘弁してくれよ」
和樹はそうボヤキながら手を耳に当て、集中力が掻き乱されないように必死に堪える。
ただでさえ良いアイデアが思い付かなくて苛ついている最中なのだ。これ以上邪魔をされ
たくない。だが、そのけたたましい足音は止む事なくどんどんこちらへ向かって突き進ん
で来る。
「…何だ?」
そう和樹が呟いた瞬間。
「和樹―――――――ッ!!」
バターーーーーンッ!
「おわッ!?」
鬼のような形相を浮かべる瑞希が怒りの咆哮を上げながら和樹の部屋に乱入して来る。
その思いも寄らない展開に和樹は唖然とした表情を浮かべながら突如現出したこの状況に
思いを巡らす。何故に瑞希は怒っているのだろうか? 何か怒らせるような事をしただろ
うか?
(…駄目だ。たくさん有り過ぎてどれの事かがわからん)
そんな寒い結論を頭の中に紡ぎ出した和樹はとりあえず平和的解決を狙う為ににこやか
な表情で目の前の瑞希に話し掛ける。
「な、何だ、瑞希か? 一体どうした?」
「どーしたもこーしたもないわよッ!」
だが、和樹のそんな作戦は瑞希には一切通用しない。それどころかご近所の迷惑を考え
ずに更なる大声をがなり上げる。
「…あんたの見入られた世界がどれだけ素晴らしいのかあたしなりに理解しようと思った
のに…。何よ! アニメなんて面白くも何ともないじゃない! あんなに恥かしい思いを
したって言うのに…。お母さんにまで誤解されちゃって…。ああ、あたしもうこの先生き
ていく気力が湧かないわ。責任取ってよね和樹!」
「…と、とりあえず落ち着け瑞希。俺には何がなんだかさっぱり…」
「これよッ!」
そう叫びながら瑞希は手に持っていた大量のビデオを床にばら撒く。それは瑞希が今日
の昼間に借りて来た魔女っ子アニメ達だった。
「あんたが『このアニメならお前にもわかってもらえるんじゃないかな』なんて思わせぶ
りな事を言うからこの世のモノとは思えない程の恥かしさを乗り越えて借りて来たって言
うのに…。和樹の馬鹿――――ッ! 馬鹿馬鹿馬鹿――――――ッ!」
「わッ! わわわッ! と、とりあえず落ち着け瑞希」
「落ち着いてなんかいられないわよーーーーッ! もうッ…!」
そしてその言葉を最後にヘナヘナとその場に座り込む瑞希。言いたい事を思い切りぶち
まげた反動で気力が抜けてしまったのかも知れない。和樹も多少落ち着きを取り戻した瑞
希の言葉の意味を探り当てとりあえず優しげに語り掛ける。
「俺が薦めてたアニメって…。『カードマスターピーチ』の事か?」
「名前は良く覚えてないけど、確かそれ…」
「…と、言うか。同士瑞希よ」
「え?」
それまで沈黙を守っていた大志がぶちまげたビデオをまさぐりながら瑞希に話し掛ける。
「ここにあるアニメの中に『カードマスターピーチ』は見当たらないのだが」
「…はい?」
その瞬間、部屋の気温が五度ほど下がった感触を覚える。それは瑞希だけでなく和樹や
大志もまた同様だっただろう。そして無限とも思える沈黙の中、瑞希がポツリと一言呟く。
「…そ、そうなの? 大志」
「うむ。ここにあるアニメ群は全てピーチの大ヒットに刺激されて登場したいわゆる『二
番煎じ』というシロモノばかりだ。無論、この中でもそれなりにヒットを記録した作品は
ある。だが、所詮は柳の下のドジョウ。ピーチの偉大さには遠く及ばぬモノばかりだ」
「そんな…。だってあたしそれっぽいアニメを全部借りて来たのに…」
「貸し出し中の作品はカウントしているのか? 同士瑞希よ。ピーチは大人気作品故、ま
ともに借りるのにも相当苦労するはずだが」
「…あ」
そう短い言葉を漏らしながら瑞希は昼間のビデオショップでの事を考える。
「…そう言えば、あたし。頭に血が昇っちゃってそこまで気が回らなかったような…」
「つまりはそう言う事だ、同士瑞希よ。己のミスを棚にあげて同士和樹を罵倒するとは愚
の骨頂。そうは思わんかな?」
「…うう」
大志にそんな痛いところを突かれて沈黙せざる負えない瑞希。冷静に考えて見ればたか
だかアニメの事でそこまで言われるのも何なんだが、最初に喧嘩を吹っかけてきたのが瑞
希本人なのだから致し方ない。
「ゴメンね、和樹。あたしちょっと勘違いしてたみたい…」
すっかり冷静さを取り戻した瑞希が途端にしおらしくなり和樹に謝罪の言葉を述べる。
しかし和樹はそんな瑞希の言葉に耳を傾けず、真剣な表情で瑞希のぶちまげたビデオの方
を注視している。
そんな和樹のつれない態度を見て、不安と言う名の雲がムクムクと膨らんで行く瑞希。
もしかして和樹を怒らせてしまったのかも知れない。そんな考えが頭をもたげ、ますま
す萎縮してしまう瑞希。その姿は先程のライオンですら逃げ出しかねない瑞希とは到底同
一人物とは思えなかった。
「あの…。もしかして怒ってるの? 和樹…」
瑞希が今にも泣き出しそうな表情で和樹の肩に手を差し伸べる。だが、その瞬間。
「これだッ!!」
和樹が天と切り裂くような大声をあげる。突然のその態度に大きな瞳を更に広げる瑞希。
「か…和樹…?」
「瑞希ッ!」
ガシッ!
和樹が嬉々としながら瑞希の手をガッシリと握って来る。想像も出来なかったその行動
に瑞希の心臓が身体から飛び出しかねないくらい跳ね回る。
「お前の持って来てくれたビデオのおかげでいいアイデアが浮かんだよ! ありがとう瑞
希。これも全てお前のおかげだ!」
「…え? え? え?」
瑞希が大きな瞳をパチくりしながらそう答える。だが興奮した和樹の耳には届かない。
「ほう、やっとアイデアが浮かんだようだな、同士和樹よ。して、どんなストーリーなの
だ?」
「ああ、ピーチと他番組のヒロインを戦わせてみるんだよ。まあ、ちょっとしたクロスオ
ーバーってヤツだな。これならかなり好き勝手出来る上に他に似た事やってるヤツも余り
いないだろ?」
「…ふむ、なるほど。さすがは同士和樹だ。我輩の見込んだだけの事はある」
「よーし、このアイデアなら何枚でも描けそうだ!」
和樹が大志と盛り上がっている最中でも和樹は瑞希の手を掴んだままだ。瑞希の頭は既
にヒートアップし、まともな考えすら既に浮かんで来ない。ただわかるのは和樹の手から
伝わって来る体温。その温かい感触。その心を包み込むような切ない感覚を追い掛けるの
が精一杯だった。
「さーて、早速コンテを切るか。とりあえず今夜中に仕上げないとな!」
その言葉を瑞希の手を振り解いた和樹は再び机に着き、一心不乱に作業を始める。
そんな和樹の姿を呆然と見つめる瑞希。一時だけ起こった夢物語をその手で抱き留めな
がら。わずかに残った和樹の体温を確かめながら。
「同士瑞希よ」
そんなボオッとした瑞希にある一本のビデオを差し向けながら話し掛けて来る大志。瑞
希は自分の頬をパンパンと叩きながら何とか意識を現実世界に向けさせる。
「な、何?」
どうにかまともに喋れるようになった瑞希が大志にそう言葉を返す。
「これが同士和樹の言っていた『カードマスターピーチ』のビデオだ。これさえ見れば
何故あの男がこれほどまでに情熱を燃やす事が出来るのかが良くわかる事だろう」
「で、でも、いくら大人気番組って言ってもアニメはアニメなんでしょ? あたしが今日
観たヤツとそんなに違いが有るとは思えないんだけど…」
「観るか、観ないかは、同士瑞希。お前の判断に任せる。我輩はそれ以上何も言わん」
そうしてビデオを瑞希の手に渡す大志。
瑞希は何とも言えない表情でそのビデオを見つめる。本当にこのアニメが和樹を狂わせ
るほど面白いモノなのだろうか? 今日観た一連のアニメ群とそれほど違うと言うのだろ
うか? 今の瑞希にはそんな疑念を抱く事しか出来なかった。
「ああ、ちなみにそのビデオは本放映の頃から標準で録画していたいわば我輩の宝物だ。
一話目の予告は元よりピーチ関連のCMのみを残すと言う神懸り的な技をもって仕立て上
げたいわば芸術品と言っても差し支えないだろう。そんな極上の環境で観られる事を感謝
するが良い、同士瑞希よ」
「そんな事言われたってわかんないわよ!」
いつもの自分を取り戻した瑞希の怒声が原稿描きに没頭する和樹の部屋に響き渡ってい
た。
時刻は午前十二時過ぎ。
和樹の部屋から自宅へ戻って来た瑞希は『カードマスターピーチ』のビデオを手に持ち
ながらこれからどうするか頭を悩ます。
このアニメをこれから観るべきだろうか?
確かに昼間アニメを観ていたとはいえ、その半分以上眠りこけていた瑞希に今のところ
眠気はない。
かと言ってこれから観るとなると結構な時間まで起きていないといけないのもまた事実
である。
「どうしようかな…」
瑞希は一人そう呟きながらTVの前にボケーと座っている。時計の針の音がどう行動す
るべきかせかすように逐一瑞希の耳に届いて来る。
「ま、いいか…。どうせつまらないのはわかってるんだから、頃合を見計らって寝る事に
しよっと」
そう判断した瑞希は手に持ったビデオをデッキに挿入し、再生ボタンを押す。
一応観る気になった瑞希だったが、今日の一件でアニメに対する個人的価値は限りなく
ゼロに近付きつつあった。
いくら和樹が気に入ったとは言え、それは和樹が元々そういう素養があったと言うのが
瑞希の今の答えだった。元より和樹は絵に対する関心が強いのだ。自分みたいな体育会系
とはノリが違う。
そんな事を考えていると瑞希の心がズンズン落ち込んで行く。
それは奇妙な疎外感。趣味の違いから昂じるもの悲しい違和感。
「ふう…」
瑞希はそう溜息をつきながら今日和樹に掴まれた手をゆっくりと撫でる。だがあの時の
感触は既に手の甲には残ってはいなかった。そうこうする内に画面には派手な服装をした
女の子と共にけたたましい音楽が鳴り響いて来る。
「これがつまらなかったら…。あたし和樹に何て言えばいいのかな…」
そんな気だるそうな表情でピーチを見入る瑞希。だが。時間が経つにつれ瑞希の表情に
ささやかな変化が訪れる。
「へえ…。まあ確かに昼間観たヤツよりはマシって気がするけど」
そしていつのまにか一話目が終わり、続いて二話目が始まる。今度はOPもさっきとは
違いしっかりとした表情で鑑賞する。
「これが主役の女の子よね。こうやって改めて観ると曲とかもそんなに悪くないかも…」
そうやっていつしかちゃんとした姿勢を取り直し画面を見つめる瑞希。
二話目は特に『カードマスターピーチ』という作品の中でも非常に人気の高い話であり、
瑞希もその完成された構成と声優の見事な演技にいつしか翻弄されつつあった。
そして三話、四話過ぎ去って行き、気が付いた時にはテープが終わりを迎え自動的に巻
き戻しを始めていた。
「え!? ちょ、ちょっと、これだけしか入ってないの?」
いつしか画面に集中していた瑞希が思わずそんな言葉を漏らす。先程の杞憂など瑞希の
頭からすっかり消え去っていた。それだけこの『カードマスターピーチ』という作品には
観る者を圧倒する説得力と破壊力に満ち満ちていた。
「もう! こんなところで終わられたら先が気になって逆に眠れないじゃない!」
そんな理不尽な文句を吐き出しつつ、結局また一話から見直す瑞希。既に和樹に対する
文句などとっくに霧散し、『カードマスターピーチ』の世界に熱中する瑞希。
瑞希がそんなピーチの服装を作りコスプレの世界に足を踏み入れるまで大した時間は掛
からなかった…。
END
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